神戸、六甲山に誘われて

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パーティー会場には片山義美の思い出の写真やレーシングマシン、そしてクラブ員の写真と革ツナギなども展示されていた

2016年326日に亡くなった片山義美を偲ぶ会が、命日を前に神戸ポートピアホテルで開催された。片山さんと言えばマツダのエース・ドライバーとして名を馳せた関西の雄だ。会の発起人には名士が名を連ねているが、私が事務局を手伝わせていただいているMFJレジェンド・ライダース・クラブの役員からも、吉村太一さん、清原明彦さんが加わっている。そんな関係もあり会にお誘いいただいた。

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「昭和に輝いたモータースポーツ関係者とファンによる片山義美を偲ぶ会」発起人を代表して挨拶をする宇野順一郎氏と、後列右から同発起人・小嶋松久、寺田陽次郎、山本 隆、星野一義、坂口 顕、吉村太一、村上 力、清原明彦各氏

会場に着いて圧倒された。日本のモータースポーツ近代史に名を残す人々がずらりと揃っていたからだ。65歳の私が中学・高校時代にモータースポーツの世界を知って貪るように読んだ雑誌や書籍に載っていたあこがれのヒーローがそこにいた。ジャンルは四輪レーシングドライバー、ロードレースライダーにとどまらず、MXライダーやトライアルライダーまで。それも有名レース優勝者や全日本チャンピオン、さらには世界チャンピオンまでもが。集う人を見るだけで片山さんの偉大さをあらためて知ることとなる。

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会場も広かった。着座形式のパーティーで、並べられた20テーブルに170名以上が集った様は壮観だった

片山さんが雑誌などで紹介される際には「怪童片山」と書かれることが多かった。この名付けの親は、月刊モーターサイクリスト誌の酒井文人さんだったというエピソードを大久保力さんが紹介した。

「関東でも、『関西に凄く速いライダーがいる』と噂になっていました。そのライダーが第4回全日本クラブマンレースが開催されたジョンソン基地(現入間基地・埼玉県)にやってきた。350ccクラスでぶっちぎりの優勝、噂通りの走りをして観衆の度肝を抜いた。みんな『怪物だ』と囃し立てた。それを耳にした酒井さんが『怪物という呼び名は良くないな。怪童がいいだろう』と決めたことからこのネーミングになりました」。

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1961年のジョンソン基地で片山義美さんの衝撃のデビューを目撃した大久保力氏。1964年の第2回日本グランプリ自動車レース大会T-1ツーリングカーレースでは、スバル360とマツダ・キャロル360で競り合った。「インを攻めてくる積極的なドライビングでした。当時キャロルは重かった。そうでなければ抜かれていました」

元ヤマハ・ファクトリーライダーの本橋明泰さんがその後の片山さんを振り返る。「片山さんは、最初ホンダに入りました。しかし、ホンダでライダーをまとめていた田中健二郎さんと折り合いが悪く辞めてしまいます」。当時ホンダでは健二郎学校と呼ばれたスクールが開かれていたはずだ。

「次に入ったのがヤマハです。当時のヤマハは伊藤史朗さんが仕切っていた。その伊藤さんとも合わなかったのでヤマハを出てしまいます」。

その後は、スズキのプライベータとして走っていた。「ところがプライベータといってもとても速い。スズキの外人GPライダーも含めトップタイムを出したことがきっかけとなってすぐに本社契約のファクトリーライダーになっています」。そのスズキでGPデビュー。1960年代にGPで4勝している。この優勝回数は、日本人で初めてGPで優勝した髙橋国光さんの記録と並んでいるそうだ(当日配布された小冊子「片山義美さんを偲んで」東 信亨さん著より)。

 しかし、そのスズキも1967年でワークス活動を休止してしまう。時代も2輪から4輪へ変わりつつあった。片山さんはマツダに籍を移し4輪レースに打ち込むようになる。

 パーティーの最中、思い出の写真のスライドショーがあった。100枚以上の写真が映し出されたと思う。その中に真っ赤な顔をした片山さんが写っている写真があった。テスト中に発火し顔面を含め大火傷を負ったことがあったという。そんな時でも、家族や関係者の制止を振り切って「会社に迷惑はかけられない」と走り続けたそうだ。痛みや辛さは一切口にしない。責任感の塊のような人でもあった。

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父、片山義美氏の遺志を引き継ぎRX-8、RX-7、ユーノス/マツダ・ロードスターなどマツダ車の一般整備からサーキット走行を前提としたチューニングをトータルでプロモートする片山レーシング代表の勝美氏

御子息の勝美さんが登壇して父の思い出を語った。「怖いと思われている父ですが、家ではとてもいい父親で怒られた記憶がありません。逆に母にしかられていると庇ってくれるような父でした」と振り返った。「私にとって一番よかったことは、そんな大好きな父が出場したN1耐久のメカニックを勤めさせてもらったことです」

 片山さんは2輪のレース活動を始めるとともに木の実レーシングを主宰した。木の実レーシングは多くの関西のライダー、ドライバーを輩出している。歳森康師氏、山本 隆氏、金谷秀夫氏、村上 力氏、従野孝司氏、星野一義氏、清原明彦氏、和田将宏氏、毛利良一氏、片山敬済氏など枚挙にいとまがない。その後トライアルで全日本チャンピオンになる近藤博志氏も木の実レーシング出身だ。これだけの才能が揃い育ったのも片山さんの人柄を偲ばせる。

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司会は、元全日本MXチャンピオンの杉尾良文氏。木の実出身の元県会議員はよく通る声で3時間の会をひとりで取り仕切った

今回の神戸行きに際しぜひ寄りたかった場所がある。六甲山だ。これまで一度も行ったことが無い。太陽が昇る前に国道2号線の徳井交差点を折れてクルマで六甲山方面に向かった。するとほどなくして坂がきつくなってきた。神戸大学六甲台第1キャンパスを左手に見るころにはかなりの勾配がついている。街を抜ける前に山がある。『そうか、神戸の街と六甲山とはこういう位置関係だったのか』。走り屋にとっては絶好のロケーションだ。

 ここがまさに片山さんや木の実レーシングの面々がトレーニングに励んだ場所なのだと思うと走りながら感慨がこみ上げてきた。片山さんが4年間1日もかかさず早朝トレーニングに励んだという話は伝説になっている。その昔TVのドキュメンタリー的な番組を見た記憶がある。お母さんがストップウォッチを片手に片山さんの操るバイクの後ろに乗り、六甲山のワインディングロードを走ってトレーニングするというシーンがあった。

しばらくの間九十九折の複合上りコーナーが続く。ハンドル操作が忙しい。

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伝説を温めながら念願の六甲山ワインディングロードを登り展望台に着いた。見下ろすとすぐそこに神戸の街と港が広がっていた

まだ、とばりが降りている展望台に到着すると車高を下げた一台のクルマが止まっていた。声をかけると六甲山のワインディングロードのことを詳しく教えてくれた。よく走りに来るそうだ。あの時代から今も走りの文化が息づいている。

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自宅に戻り引き出物の箱を開けるとヘルメットの写真がプリントされたマグカップが出てきた。図柄は神戸の市章に船のイカリを組み合わせた木の実レーシングのマークだ。このマークが入ったヘルメットで片山さんや多くのチーム員が国内はもとより世界各国で戦い続けてきた。マグカップで珈琲を飲みながら片山さんをはじめ木の実レーシングに関わった人たちが今も地形の恩恵を敬い神戸市を誇りにしていることを、あらためて羨ましく思った。

 Photos/「昭和に輝いたモータースポーツ関係者とファンによる片山義美を偲ぶ会」事務局、古谷 Text/古谷重治

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