TECH21とピーナッツバター(後編)

TECH21とピーナッツバター

見事ポールポジション獲得。初めて鈴鹿を走ったケニー・ロバーツは完璧に仕事をこなし、スポンサーの資生堂TECH21カラーを強烈に印象付けた。「初の鈴鹿8耐で予選1位」というニュースは瞬く間に広がった。鈴鹿サーキットは真夜中から朝方にかけて異様なほどの観衆が押し寄せてきた。サーキットの喧騒とはうらはらに、静かにホールウィートブレッドとピーナッツバターの朝食を終えたケニーは仕上げのため決戦の場に向かった。

Thursday

僕は無線従事者免許証を持っている。会社が所持する移動無線局の資格を維持するためだ。マイクとレシーバーを付けた無線機をグランドスタンド最上階のアナウンス室の隣に据え付けた。それからメインストレートを挟んで正面に見えるピット全体を見渡した。ピットは週末の決勝に向けて、最終コーナー側から1コーナー寄りまで参加チームでびっしりと埋まり、クルーが慌ただしく走行の準備をしているのが手に取るように見えた。ケニー/平組、ガードナー/徳野組、そして上位争いに加わりそうなチームのピット位置を確認していく。

8耐はスプリントレース取材とは異なり、レース中もピットでの情報収集がかかせない。ピットでの出来事が勝敗を左右することもある。だれがいつピットインして、どんな作業をして、どのライダーに交替したか。時間はどれほどかかったか。

これらを的確に掴んでいないと次に起こることが予測できない。また相対的に戦っているチームがわからない。見失うとドラマの本流からはずれドキュメンタリーが作れなくなる。レースが終わってから正式結果表を見て振り返るような臨場感の無いレポートは作りたくなかった。

各チームのスタッフでごったがえす鈴鹿の長いピットロードでは、こちらのチームのルーティン・ピットインを取材しているうちに、あちらのチームが転倒でピットインしても見逃してしまうということもあった。効率よく取材するためには、今でいうスポッター役が必要だった。

僕はモトローラのスイッチをONにして、ピットウォール手前に立ちこちらを見上げている野澤さんに話しかける。両腕でマルを作る動作で電波が正常に飛んでいるのを確認した。無線機は、他の記者、編集スタッフ、カメラマンにも持ってもらった。俯瞰したピットの状況は、ピットスタッフとカメラマンに伝え、ピットで起こっていることは時系列でノートした。スタッフは、決勝を前に全員がこれから起こるであろうメインストーリーを把握した上で個々に取材を広げていける体制を作り上げた。

ロスからやってきた特派員のリチャードも加わった。リチャードには、ケニーに密着してもらった。初日から素晴らしい仕事振りで、ホテルの部屋にまで同行し、ベッド上で前週のフランスGP情報を確認するケニーの様子まで撮影してきた。ケニーの心情や様子も取材スタッフ全員で共有した。

Friday

練習走行があり、そして第一日目の予選が始まった。ゼッケン3、ホンダRVF750のガードナーが2’20″799を出しトップに躍り出た。ペアを組む徳野より3秒以上速い。その徳野はこれまで鈴鹿F-1クラスのレコードホルダーだったのだ。そしてライバルのケニー、平より1.5秒以上いいタイムだった。

7月中旬にラグナセカでのレースを経験してきたとはいえ、本格的なGP参戦からは1年以上のブランクがある。ましてや、マシンは不慣れな4ストロークのFZR750エンデュランス。一方この時のガードナーはすでにGPライダーで、なおかつ鈴鹿のコースにも慣れ親しんでいた。予選タイムでガードナーを上回ることは不可能と誰もが思っていた。

Saturday

翌日、予選二日目が始まった。前日に絶対的なタイムを出していたガードナーは出走しなかった。ポールポジション獲得の自信もあっただろう。ましてや8時間耐久レースである。予選の順位が1、2番変わったところで決勝結果に影響することはない。マシンと体力を温存するという余裕をみせた。

一方で、ケニーとTECH21チームは違った。Tカーを準備し、本気のタイムアタックを開始、そしてついに2’19”956というラップレコードを叩きだしたのだ。前人未到のタイムで、押しも押されぬポールポジション獲得だった。

レースは現金なもので結果がすべてだ。ケニーもヤマハも良く知っている。淡い紫色を、レースファンに対し鮮烈なレーシングカラーに変えてみせたのはケニーとFZR750エンデュランスが刻んだ驚異的なタイムに他ならない。それまで、弱々しく映ったTECH21カラーが一夜明けた決勝日の朝にはどのチームより輝やき、誰もが羨望の眼差しで見るようになっていた。

土曜日ですでに満員近かった鈴鹿サーキットは、ケニー・ロバーツ、ポールポジション獲得のニュースも相まって夜中から朝方にかけてさらに観客が集まってきた。観客は仮眠を取ろうにも場所が無く、道路の中央分離帯の植え込みに横になっていた。梅雨明けの真夏の猛暑で、だれもが汗と埃にまみれている。そして、その誰もが、ケニー・ロバーツとTECH21チームを追いかけていた。

果てしなく集まってくる群衆の間を縫うように、僕たちは、夜の平田町から白子方面までスーパーマーケットを駆け回っていた。主婦の店がまだ開いていた。「決勝日の朝食は、ホールウィートブレッド(全粒粉パン)とピーナッツバターにしたい」というのがポールシッターの注文だった。

Sunday

毎年7月最後の日曜日に開催設定されている8耐は、午前11時30分にスタートすることが決まっている。午後6時30分を過ぎたころからコースが薄暗くなり始め、午後6時45分には全車点灯のサインが出る。午後7時を過ぎると路面が完全に闇に包まれコースにヘッドライトの閃光が走るようになる。西の空は路面より少し遅れて青からグラデーションをかけつつ漆黒へと変わっていく。

スタートにこそ出遅れたケニーだったが、1周目を35位、5周目を13位、10周目を6位、20周目3位と順位を上げ、給油と平に交替するためにピットインした22周目にはすでに2位だった。ピットインのため5位まで順位を落とした平も、着実に順位を上げ38周目のシケインでトップに立った。ストレートを駆け抜ける平にグランドスタンドからは大歓声が上った。

午後1時30分、午後2時30分、午後3時30分、午後4時30分、午後5時30分、午後6時30分。鈴鹿の長い夏の日がゆっくりと過ぎていく。

その後も後続との差を安全圏に入れ、優勝確実とみられた午後6時58分、悲劇は起きた。最終走者の平が乗るFZR750エンデュランスがスロー走行し、追い上げていたガードナーにあっさりと首位の座を明け渡したのだ。ゴールライン手前にマシンを停め、30分後のチェッカーを手押しで受けようとした平を、前川監督が促しピットに入れた。TECH21のあまりにも無情な幕切れだった。

「何があったんだ?」「ガス欠か?」という憶測も飛んだ。「エンジントラブル」というのが正式なリタイヤ理由だった。それ以上詳しいことは長い間明らかにされることはなかった。

重ぐるしい雰囲気に包まれるヤマハ、歓喜のホンダ。パドックは夜にもかかわらずはっきりとコントラストをつけていた。僕の感情も、大きく揺さぶられた。予想をはるかに超えた素材を前にしながら、この数ヶ月の緊張が解けてしまい頭が白くなっていく。スポッター失格だ。

僕がこんな風になってしまってもスタッフは冷静に現場を観察し、しっかりと素材を集めていた。その集大成を次号のライディングスポーツ1985年10月号(8月24日発売)に掲載した。いろいろな切り口で40ページ以上の展開となった。

その中で、僕の記憶に特に残っているカラー6ページに渡るフォト・ストーリーがある。「6時58分、から」というタイトルで始まるその読み物は、暮れなずむ鈴鹿の三様の空を背景に、あの日鈴鹿で起こった30数分のドラマを淡々と語っている。書いたのはピットロードから僕に向かって丸印を作った野澤さん。写真は、桜井さん、小池さん、西巻さん、三町さんの共作だった。オートバイレースレポートの最高傑作のひとつだ。

この雑誌は、今でも電子版で見ることが可能だが、最初の見開きの本文は、TECH21色の鈴鹿サーキットの西の空を背景に白抜き文字で印刷されている。紙の誌面でも、判読できるぎりぎりを狙ったデザインのため、スキャニングした電子版では文字が見えない部分がある。読めないのでは残念すぎるので、最初の見開きの本文だけここに引用させていただく。

「6時58分から」第一見開き

月刊ライディングスポーツ1985年10月号「6時58分、から」。まだ明るさを残す鈴鹿の西の空に本文の白抜き文字が消えていくオープニング見開き。デザインはアートディレクターの坂戸さんが担当した。

  ■ ■  ■ ■  

「6時58分、から」

スモークシールドをつけたまま平を追っていたガードナーが、
やっとライトを点灯したのが180周めだった。
猛然と平を追いながら、さすがにコース上の光量が少なくなってきたのを感じ、
我に返ったように、ライトをONにする。
ガードナーの181周めのピットサインは「マイナス79秒、タイム25秒」だった。
平が、182周めに入るコントロールライン上で確認したピットサインは、
「タイム25・3秒、プラス78秒」だ。残り周回数は、12か13周。ほぼ間違いはない。
チーム監督の前川和範は、計測した181周めのタイム「25.8秒」を、
手元のストップウォッチで確認する。時計は、6時58分を示していた。
その時だった。
第1コーナーに進入したFZRのエキゾーストマフラーからブワっと白煙が出た。
一瞬、上体を起こした平は、ややマシンを立てて、第2、第3コーナーをクリアする。
放送席の松戸信二アナウンサーがこれに気が付いたのは、S字に入ってからだ。
「おーっと、平が、S字をスロー走行の模様です。どうしたのでしょう!」
悲鳴に近い声が観客席からあがる。ピットでは、まだそれを知らない。
無線を使っているプレスが前川監督に駆け寄る。
「平くんがS字でスロー走行! S字、S字!」
「えっ、走っているのか! 今どこにいるっ」
平はよろけるように西コースにかかっている。
「今、ヘアピンに入った。止ってはいない、動いている!」
ヤマハのピット員全員が最終コーナーの方向を、キッと見すえている。
フラッグポストの上からフラッグマンの土屋一正さんが声をかける。
「スロー走行!。スプーン、スプーンをスロー走行!」
その言葉を確認した前川監督は、ピットロードの横断歩道を渡って自陣へ帰る。
平が、最終コーナーに姿を表わした。完全に、スピードが無い。
ピット前でストップボード握りしめて立ちつくしていた前川監督が、平を確認した。
平は、ピットロードに入れず、ストレートにそのまま走り出ていた。
アナウンスが、フォルセットになって絶叫している。
前川監督は、ストップボードを投げ捨てて、再びプラットホームに、駈けた。
平はゆっくりとスピードを落として、プラットホームに寄りそうようにマシンを止める。
だがそこは、ヤマハのピットのひとつ手前、スズキフランスの位置。
「もっと先だ! 行けっ行けっ、もっと前だ!」とスズキのメンバーに促されて、
平はマシンをまた10メートルほど前方に進める。
レイバンのサングラスをかなぐりすてるようにはずした前川監督が、
プレスやオフィシャルをかきわけながら、平の止まっている位置に駆け込んでくる。
メカニックがマシンのフロントカウルに手を伸ばし、ささえている。
「どうした!」
平は、ヘルメットのシールドをあげて、前川監督にふた言み言返すと、
小さくヘルメットを左右にふった。
わずか10センチのコンクリートの壁をはさんで、
ふたりはすべてを、理解したように見えた。
ブルーのチームウェアを着たメンバー全員に、顔色が無い。
そのまたすぐとなりのHRCのピットのメンバーも、同じだ。
”信じられない”という表情が、どの人からも感じられる。
スロー走行を伝えるアナウンスから、まだ3分足らずしか、時間は進行していない。
西の空は、またやや色を深めただろうか。電光板が「残り、0時間30分」を示している。
(以下、ライディングスポーツ1985年10月号次ページに続く)

  ■ ■  ■ ■  

夕やみ迫る鈴鹿で息を止めたヤマハTECH21チーム。あの淡い紫色は、あの時間、今も鈴鹿の空に現れる。

フルヤ シゲハル

<参考文献>

月刊ライディングスポーツ1985年10月号(No.33)
レーサーズVol.09 YAMAHA GENESIS(2011/7/7 三栄書房刊)売切

月刊ライディングスポーツ1985年10月号(No.33)は誌面をスキャニングした電子版がASB電子雑誌書店にあり、無料で全ページプレビューすることができます。また、1冊800円で講読することができます。

https://www.as-books.jp/

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