TECH21とピーナッツバター(前編)

20190711_kenny

ライディングスポーツ誌は、都内で開かれた華々しいTECH21発表会に付き合いながらも、8耐主人公の真髄に迫るためにケニー家を再び訪れていた。ケニーは勝つために本気のトレーニングを開始している。負荷に顔をゆがめるケニーの写真とインタビューは、8耐が直前に迫る9月号(7月24日発売)に掲載した。

一昔前だろうか? いや、ふた昔だったか? 毎年この時期になると二輪業界関係者の挨拶が、「8耐、行きますか?」という言葉に置き変わった。業界から遠ざかっていた僕はしばらくこの挨拶を受けたことがなかったが、青山の「CB展」がきっかけで始まったタイム・スリップのせいで、また耳にするようになった。挨拶されたなかのひとりに「今年はどんなレースになりそうなの?」と尋ねると、「ヤマハが5連覇を目指します。でも今年はいつになくホンダの調子がいい。いいレースになりますよ」と断言された。『そうか、レースの中心がヤマハで、挑むのがホンダなのか…、時代が変わったんだな…』などと頭の中を修正していると、「そういえば、ヤマハ・ワークスは昔のTECH21カラ―で出るそうですよ。今年だけらしいですけど…。でも今更、なんでTECH21なのかな…」といぶがしがっている。僕も一緒に『何でなんだろう…』と考えた。しかし、最近のレース事情に疎いので答えがでない。『現代にTECH21か…』思いを巡らしているうちに、いつしかまた時空を飛び越えてしまったようだ。

April 1985

1983年の世界グランプリ500cc最終戦サンマリノで勝利したものの、年間チャンピオンをフレディ―・スペンサーに奪われたケニー・ロバーツはその年を限りにタイトルを獲りに行く戦いをやめてしまった。翌年レースとは無関係にモトクロッサーで走行中に大腿骨を骨折したというニュースが入ってからケニーの消息は途絶えたままだった。

引退したはずの「ケニー・ロバーツが、今年の8耐に出るらしい」こんな情報が編集部に飛び込んで来たのは、1985年の4月中旬だったと思う。年初のデイトナのパドックでこのウワサが燻り始めたらしい。すぐにヤマハ広報に確認したが広報はまったく知らない。そもそもエントリー前だし、体制が決まっていない。

ならば、レース担当の部長に聞こう。受話器を取り番号を回しながらふと思いがよぎった。部長は朗らかな方だったが、肝心な事には口が固かった。発表前の情報を教えてくれるはずがない。しつこく粘りすぎて、全面的にバリケードを張られてはこの先の取材が進まなくなってしまう。ヤマハは上の命令がすぐに隅々まで行き渡る会社だ。受話器を戻しながら思いついたのが、ケニーを直撃取材することだった。ロサンゼルスにいる特派員リチャードに連絡してケニー家を訪ねてもらう。 数日後国際電話がかかってきた。「正式契約はまだ。でも、本人出るって言ってる」。ウワサは本当だった。世紀のスクープになる。

僕が係っていたオートバイレース専門誌は毎月24日が発売日だった。4月24日発売の6月号は校了しており、この記事を掲載することが出来ない。次号が発売される5月24日までには1ヶ月ものスパンがある。それまでこのネタを眠らさなければならない。発売日が早い他のバイク専門誌がスクープをモノにしてしまう可能性があった。ライバル専門誌より先行したい。

当時、バイクやバイクレースは日本史上始まって以来の大人気を博し、情報の伝達媒体はバイク専門誌からテレビ、新聞、週刊誌へと広がりをみせていた。特に若者に人気のあった男性週刊誌「プレイボーイ」は編集者の村松さん自らが鈴鹿4時間耐久レースに出るほどで、理解も深く露出も多かった。

「ケニーが8耐に出たいと言っている。言質は取った。記事にしてくれないか」と頼み込んだ。事情を呑み込んだ村松さんは、「ケニー・ロバーツが、今年の鈴鹿8耐に本気で出たがっている。あとはヤマハ次第。みんなでヤマハにお願いしよう」という記事を掲載してくれた。文末には、「詳細はライディングスポーツ7月号(5月24日発売)をお読みください」と付け加えるこを忘れなかった。

週刊プレイボーイが発売され、さらに3週間後、ケニーのインタビュー記事を掲載した月刊ライディングスポーツ7月号が発売された。「ケニー出場、応援キャンペーン」が展開されていく。

しかし、何も起こらない。読者からも、関係者からも、ヤマハからも、問い合わせや意見、忠告すら編集部に届かない。日々が1日、1日と過ぎていく。契約していないのにマスメディアを使って一方的に焚き付けた責任は僕にある。ヤマハから苦情がくる可能性は十分にあった。冷や冷やしながらも、望みが実現することを祈り続ける。

June 1985

その時、ヤマハ内で何が起こっていたのか僕は知らない。5月が終わり、6月に入った時点で状況が大きく動いた。6月8-9日の全日本ロードレース選手権第6戦鈴鹿200km大会会場の鈴鹿サーキットで、ヤマハは異例の8耐参戦記者会見を開き、僕たちの前にケニー・ロバーツを登場させたのだ。チーム名は、ヤマハTECH21チーム、使用マシンはヤマハFZR750エンデュランス、ライダーは、ケニー・ロバーツと平 忠彦という陣容だった。

初めて鈴鹿サーキットにやって来たケニーには、グランプリ時代の本社側監督だった前川さんが付き添っている。コースを見たり、マシンを観察していたケニーは、しかし観衆に気付かれることがなかった。服装が、僕たちが見慣れているインターコンチネンタルカラーやマールボロカラーではなく、国内ワークスカラーのトリコロールだったせいかも知れない。そんなケニーがヤマハのピット内で上野真一のFZR750に関心を寄せている様子をカメラマンの桜井さんが切り取った。この写真が次号のライディングスポーツの表紙を飾ることになる。写真が物語るように、ケニーの鈴鹿デビューは報道陣の喧騒と興奮とは異なり静かなものだった。

ケニーが表紙を飾ったライディングスポーツ1985年8月号。8耐出場緊急記者会見のため鈴鹿に参上したケニー・ロバーツだが、パドックやピットではヤマハスタッフに紛れ観客に気付かれることはほとんどなかった。

ケニーが表紙を飾ったライディングスポーツ1985年8月号。8耐出場緊急記者会見のため鈴鹿に参上したケニー・ロバーツだが、パドックやピットではヤマハスタッフに紛れ観客に気付かれることはほとんどなかった。

ケニーの8耐出場が正式に発表されてから事はあわただしく動き始めた。今度は都内のスタジオで、資生堂TECH21カラーのヤマハFZR750エンデュランスをお披露目するという。会場にはホワイトのウインドブレーカーを羽織りレオタードに身を包んだ女性モデルと、平 忠彦がいる。会場の四隅からスポットライトが当たっている。そのほとんどが淡い紫で彩られていた。原色が多用されていたレーシングシーンの時代に、その色合いはとても弱々しく映った。アナウンサー生島ヒロシの歯切れいい司会ぶりとは裏腹に、会場内には『何だかひ弱そうなチーム色』というヒソヒソ声が聞こえていた。この場にケニー・ロバーツはいなかった。

July 1985

ライディングスポーツ誌は、こういった発表会に付き合いながらも、8耐主人公の真髄に迫るためにケニー家を再び訪れていた。ケニーは勝つために本気のトレーニングを開始している。負荷に顔をゆがめるケニーの写真とインタビューは、8耐が直前に迫る9月号(7月24日発売)に掲載した。

9月号の校了後、すぐに10月号(8月24日売)の編集会議を開いた。議題はケニー・ロバーツが出場する“コカ・コーラ”鈴鹿8時間耐久オートバイレース”をどう扱うかだ。キング・ケニーの鈴鹿での一挙手一投足をあらゆる角度から切り取って読者に届けたい。特派員のリチャードもロスから呼び寄せることになった。僕たちは特別な取材班を組んで、ケニーに密着する体制を作りあげた。ケニーの参戦報道ではここ数ヶ月他誌を圧倒していただけに意気揚々と鈴鹿サーキットに乗り込んだ。

フルヤ シゲハル

TECH21とピーナッツバター(後編)に続く。

<参考文献>

月刊ライディングスポーツ1985年7月号(No.30)

月刊ライディングスポーツ1985年8月号(No.31)

月刊ライディングスポーツ1985年9月号(No.32)

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