シケインが無かったころの鈴鹿サーキット最終コーナーは、130Rを立ち上がってからの加速を維持しながらメインストレートに駆け下りてきた。750ccクラスともなればスピードは恐ろしいほどで、グランドスタンドの観衆は誰もが息を呑むほどだった。
あれは確か、1979年6月の鈴鹿200マイルでのことだったと思う。最終コーナーをサイドバイサイドで2台のマシンが通過した。どちらもスロットル全開で譲ることをしない。2台のマシンはどんどんアウト側にはらみ、ついにはアウト側のマシンが、アスファルトからダートに落ちてしまったのだ。スピードは200km/hを超えている。 「ウワー」グランドスタンドからどよめきが起こった。観衆は誰もが転倒を予想した。しかし、はみ出したライダーはマシンがダートで振られながらもアクセルを開け続けている。リアタイヤが後方におびただしい量の土埃を舞い上げる。
僕は、グランドスタンド最終コーナー寄りの桟敷席でその一部始終を目の当たりにした。僕も「ウワー」と叫んだと思う。叫びながら、『コースに戻れぬまま転倒するのではなか?』という思いがよぎった。進行方向に平行しているアスファルトの上に戻るのは容易ではない。 次の瞬間だった。そのライダーは、アクセルを戻すことなく見事なローリングでコースに復帰し、競り合いを続けながら1コーナー方面に走り去ったのだ。観衆から今度は「オー」という賞賛が上がった。路面をよく見るとコースアウト側に、アスファルト舗装されたサーキットカート搬入路があった。ここにフロントタイヤが直角に当たるように乗り上げ、搬入路上で素早く切り返しコースに復帰したのだ。その雄姿にコースアナウンスが絶叫した。「東海の暴れん坊」。ファイト溢れる走りを体現する、水谷 勝のまさに真骨頂だった。
オートバイ雑誌の新米編集部員として、僕は鈴鹿に派遣されていた。編集部がレース記事の執筆を依頼しているライターとカメラマンを現地でサポートするという役目だった。オートバイレースの聖地、鈴鹿サーキットに来たのも初めてだった。憧れていた世界が目の前に広がってはいたが、右も左もわからない状態で、ベテランライターとカメラマンのサポートなど出来ようはずが無い。ライダーにインタビューする度胸もなく、データ原稿も作れない。お荷物にならないようにしているので精一杯だった。 『なんて凄いライダーがいるんだろう』僕は度胆を抜かれるとともにそのライダーに畏怖を覚え、そしてひるんだ。『オートバイレース取材をするということは、こういうひとたちとお付き合いしていくことなのか』。人間離れしているテクニックと度胸は、憧れや尊敬を超えていた。
その年のMFJ全日本ロードレース国際A級750ccチャンピオンはその水谷が獲得した。その後、スズキのファクトリ・チームに迎え入れられ、1982年にはスズキRGΓで500ccクラスのチャンピンに輝いた。全戦全勝だった。
数年後、僕はオートバイレース専門誌に籍を移し、本格的にレース取材に取り組むことになるのだが、実際の水谷さんはとても気さくでサービス精神にあふれ、ファンにも報道陣にも気遣いをされる方だということを知ることになる。パドックでは、いつも4重5重のファンに取り囲まれ、笑い声が絶えなかった。
そんな、水谷さんが二輪モータースポーツの発展のために昨年結成されたレジェンドライダースクラブ(LRC)の一員として、今週末に2019MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ第4戦が開催される筑波サーキットにやって来る。6月22日(土)16:05には、サーキットクルージングの先導を、翌日の6月23日(日)は10:00-10:30にトークショーとサイン会を行なう。やって来るのは水谷さんだけではない。八代俊二さん、河崎裕之さん、清原明彦さんも駆けつけてくれる。手分けをしながらGP2、GP3のレース解説、表彰式でのプレゼンテーターまでかって出る。みなさん、それぞれの時代を代表するトップワークスライダーの方ばかりだ。武勇伝や逸話にも事欠かない。
LRC事務局長の川島さんの計らいで、僕も裏方としてこのコンテンツを手伝わせていただけることになった。レジェンドの周りには、あの時代を彷彿とさせる大きな輪ができるだろう。週末が待ち遠しくてたまらない。
フルヤ シゲハル
2019MFJ全日本ロードレース選手権シリーズ第4戦in筑波 2019年6月22日(土)-23日(日)
・筑波サーキット(レース詳細、入場料、アクセス)
https://www.tsukuba-circuit.jp/
・MFJレジェンドライダースクラブ